新規事業開発におけるデザイン思考:複雑な問題状況における真の課題設定と発想を促進する定義フェーズの実践
はじめに
新規事業開発において、デザイン思考はその人間中心的なアプローチにより、顧客にとって真に価値のあるプロダクトやサービスを生み出すための有効なフレームワークとして広く認識されています。特に不確実性の高い現代において、ユーザーニーズの深い理解から出発し、繰り返し検証を行うデザイン思考のプロセスは、事業成功の蓋然性を高める上で不可欠と考えられています。
デザイン思考は通常、共感(Empathize)、定義(Define)、発想(Ideate)、プロトタイプ(Prototype)、テスト(Test)の5つのフェーズを経て進行します。これらのフェーズは必ずしも線形的ではなく、相互に行き来しながら深掘りされていきます。中でも、共感フェーズで得られたユーザーやステークホルダーに関する膨大な情報やインサイトを基に、「何を解決すべき真の課題とするか」を定める定義フェーズは、その後の発想、プロトタイピング、そして最終的なソリューションの方向性を決定づける極めて重要な段階です。
しかしながら、新規事業が直面する問題状況はしばしば複雑であり、関係者の利害が錯綜し、複数の課題が絡み合い、解決策の方向性すら不明瞭である場合があります。このような複雑な問題状況において、リサーチで得られた多角的な情報から、曖昧さや矛盾を乗り越え、本質的な課題を定義することは容易ではありません。また、定義された課題が、その後の発想フェーズで創造的なアイデアを生み出すための適切な「問い」となっているかどうかも、プロジェクトの成否を分ける鍵となります。
本記事では、複雑な問題状況下でのデザイン思考における定義フェーズに焦点を当て、リサーチから得られたインサイトを基に真の課題を定義し、その定義が発想フェーズでの創造性を効果的に促進するための具体的な実践方法について解説します。読者が直面するであろう、定義フェーズにおける課題(情報の整理困難、課題設定の曖昧さ、発想への繋がりが見えにくい等)に対する示唆を提供し、実践的なアプローチを共有します。
複雑な問題状況における定義フェーズの重要性
新規事業が取り組む課題は、単一のシンプルな原因に基づくものではなく、多くの要素が複雑に絡み合ったシステムの一部である場合が少なくありません。例えば、少子高齢化、環境問題、デジタルデバイドといった社会課題を背景とする事業、あるいは既存の産業構造を変革しようとする事業などです。これらの問題は、単なる技術的な解決策だけでなく、人々の行動変容、社会システムの変化、多様なステークホルダー間の合意形成といった多角的な視点からのアプローチを必要とします。
このような複雑な問題状況では、共感フェーズで収集される情報は膨大かつ多様であり、時には矛盾を含んでいます。ユーザーの声だけでなく、ビジネス上の制約、技術的な可能性、社会文化的背景、政策動向など、考慮すべき要素が多岐にわたります。定義フェーズの目的は、これらの情報を整理し、分析し、そこに内在するパターンやインサイトを見出し、「何を」解決すべき課題として設定するかを明確にすることです。
真の課題設定が重要である理由は、以下の点にあります。
- 焦点の明確化: 複雑な状況下では、取り組むべき問題が多すぎて焦点を絞りにくい場合があります。定義フェーズを通じて真の課題を特定することで、その後の活動(発想、プロトタイピングなど)の方向性が明確になり、リソースを効果的に配分できます。
- 誤った問題解決の回避: 見えている現象(表面的な課題)に囚われず、その背後にある根本的な原因や、ユーザーの潜在的なニーズに根差した課題を設定することで、「誤った問題を正しく解決してしまう」リスクを回避できます。
- 関係者の共通理解: 複雑な問題は、関わる人によって異なる捉え方をされがちです。定義フェーズのアウトプット(例:明確な課題ステートメント)は、チーム内外のステークホルダー間で共通の理解を醸成し、足並みを揃えるための強力なツールとなります。
- 効果的な発想の促進: 適切な課題設定は、その後の発想フェーズにおける創造的なアイデア創出の質と量を大きく左右します。曖昧な課題設定では発想が拡散しすぎて収拾がつかなくなるか、あるいは当たり障りのないアイデアしか生まれない可能性があります。
複雑な問題状況だからこそ、定義フェーズで時間をかけ、多角的な視点から慎重に課題を設定することが、その後のプロジェクト成功のために不可欠となります。
定義フェーズにおける実践的なアプローチ
共感フェーズで収集した情報を基に、真の課題を定義し、発想へと繋げるための具体的な実践アプローチをいくつか紹介します。これらの手法は単独で用いるだけでなく、組み合わせて活用することでより効果を発揮します。
1. リサーチデータの整理と分析
膨大なリサーチデータからインサイトを抽出することが定義フェーズの出発点です。
- アフィニティダイアグラム(親和図法): ポストイットなどに書き出した個々の事実、観察、発言などを、類似性や関連性に基づいてグループ化していく手法です。これにより、データのパターンや傾向、ユーザーの隠れたニーズや課題を視覚的に整理し、大きなテーマとして捉えることができます。チームメンバーが共同で作業することで、多様な視点からの理解が進みます。
- カスタマージャーニーマップ/ユーザーフロー: ユーザーが目標を達成するまでの一連のプロセスを可視化する手法です。各ステップにおけるユーザーの行動、思考、感情、ペインポイント(課題や不満)、ゲインポイント(利点や喜び)を特定します。複雑な状況下では、複数のペルソナや異なるシナリオのジャーニーマップを作成することで、問題の全体像や主要な課題箇所を特定するのに役立ちます。
- ペルソナ: 典型的なターゲットユーザー像を、定性・定量データに基づいて具体的に記述したものです。単なる属性情報だけでなく、その人物の目標、動機、行動パターン、フラストレーションなどを深く描写します。複雑な状況においては、異なるニーズや行動様式を持つ複数のペルソナを設定することが、多様な課題を理解する上で重要です。
これらのツールを用いてデータを整理・分析することで、個々の事実の背後にあるインサイト、つまり「なぜユーザーはそのように行動するのか」「ユーザーにとって本当に重要なことは何か」といった本質的な理解を深めます。
2. インサイトからの課題フレーミング
抽出されたインサイトを、解決すべき「課題」として明確に定義します。この段階では、課題をどのように表現するかが、その後の発想を効果的に導く上で非常に重要です。
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Point of View (PoV) ステートメント: インサイトを以下の形式で集約する手法です。
[ユーザー名] は [ニーズ] を必要としている。なぜなら [インサイト] だからだ。
例:「多忙な共働き世帯の親は、子供の健康的な食生活をサポートする方法を必要としている。なぜなら、限られた時間の中で、栄養バランスの取れた食事を準備することと、子供がそれを喜んで食べるように促すことの両方に苦労しているからだ。」 このPoVステートメントは、特定のユーザーの具体的なニーズとその背景にある深い理由を明確に示し、その後の課題設定の基礎となります。 -
How Might We (HMW) クエスチョン: PoVステートメントや他のインサイトから、発想を促す問いを生成する手法です。「私たちはどのようにして〜できるだろうか?」という形式で表現します。 例(上記のPoVから):
- 「私たちはどのようにして、多忙な共働き世帯の親が簡単に子供向けの栄養バランスの取れた食事を準備できるようにできるだろうか?」
- 「私たちはどのようにして、子供が健康的な食事をもっと喜んで食べるように促すことができるだろうか?」
- 「私たちはどのようにして、限られた時間の中で、栄養と子供の嗜好の両方を満たすソリューションを提供できるだろうか?」 HMWクエスチョンは、解決策の方向性を限定しすぎず、多様なアイデアを奨励するオープンエンドな問いとなります。複雑な状況下では、複数のHMWクエスチョンを生成し、それらの関連性や優先度を検討することが有効です。
課題をフレーミングする際は、表面的な問題ではなく、その根本原因やユーザーの感情、隠れた動機に焦点を当てることが重要です。また、ビジネス側の視点(例:「売上を上げるには?」)とユーザー側の視点(例:「ユーザーのこの課題を解決するには?」)をバランス良く考慮することも必要です。
3. 複数の課題候補の検討と絞り込み
複雑な問題状況では、複数の潜在的な課題や機会が存在します。定義フェーズでは、それらをすべて洗い出し、検討した上で、最も取り組む価値のある課題を絞り込むプロセスが必要です。
- 課題マッピング: 抽出された複数のHMWクエスチョンや課題候補を、関連性や包含関係に基づいてマップ化する手法です。これにより、問題構造を視覚的に理解し、異なる課題間の繋がりや、より上位の課題(Root Cause)を特定するのに役立ちます。
- 優先順位付け: 潜在的なインパクト(ユーザーにとっての価値、ビジネスへの貢献度など)と実現可能性(技術、リソース、時間など)といった軸を用いて、課題の優先順位を検討します。これは、チームメンバーやステークホルダーとの議論を通じて行われ、合意形成を図ることが重要です。複雑な状況では、すべての課題に一度に取り組むことは困難であるため、最も重要かつ現実的な課題に焦点を絞る判断が必要となります。
4. ステークホルダーとの協働と検証
定義された課題が本当に解決すべき課題であるか、そしてチームや組織として取り組むべき課題であるかを確認するために、ステークホルダーとの協働と検証が不可欠です。
- 課題ステートメントの共有とフィードバック: 定義されたPoVステートメントやHMWクエスチョンを、チームメンバーだけでなく、プロジェクトに関わる他の部門、経営層、可能であれば一部のユーザーや外部の専門家と共有し、フィードバックを求めます。異なる視点からの意見を聞くことで、課題設定の妥当性を確認し、見落としに気づくことができます。
- ワークショップの実施: 関係者を集め、リサーチで得られたインサイトや定義された課題について議論するワークショップを実施することも有効です。共通の理解を深めると同時に、課題設定に対するコミットメントを得やすくなります。
定義フェーズは、単に情報をまとめるだけでなく、そこから意味を見出し、チームや組織として取り組むべき方向性を定める、創造的かつ戦略的なプロセスです。
定義された課題から発想への繋がり
定義フェーズのアウトプットである明確な課題ステートメントやHMWクエスチョンは、次の発想フェーズにおける活動の強固な基盤となります。適切な問いは、参加者の思考を刺激し、多様で革新的なアイデアを引き出す触媒となります。
例えば、「私たちはどのようにして、子供が健康的な食事をもっと喜んで食べるように促すことができるだろうか?」というHMWクエスチョンは、「栄養バランスは良いけれど、子供が嫌がるものをどうやって食べさせるか」という具体的な制約や目標を明確に示唆しつつ、「どうしたら子供が喜ぶか?」という創造的な問いかけを含んでいます。このような問いに対して、参加者は単に栄養補助食品を考えるだけでなく、「食事をゲームにする」「キャラクターを活用する」「一緒に料理する体験を作る」といった多様な角度からアイデアを発想できるようになります。
定義フェーズで設定された課題が、狭すぎず広すぎない、適切なスコープであることも重要です。狭すぎる課題設定はアイデアの幅を狭め、広すぎる課題設定は発想を拡散させ、収拾を困難にします。複数のHMWクエスチョンを作成し、それらを組み合わせてみたり、最も興味を引く問いを選んだりといった試行錯誤を通じて、発想を最大限に引き出す「問い」を見つけることが、定義フェーズの最終的なゴールの一つと言えます。
また、定義フェーズで得られたインサイト(例:「共働き世帯の親は時間がなく、罪悪感を感じている」)は、発想されたアイデアを評価する際の基準としても機能します。「このアイデアは、親の時間を節約し、罪悪感を和らげることに貢献するか?」といった問いは、数多くの中から最もユーザー価値の高いアイデアを選び出す際に役立ちます。
複雑な問題状況特有の課題と対策
複雑な問題状況で定義フェーズを進める上で、いくつかの特有の課題に直面する可能性があります。
- 情報の過多と矛盾: 多様なソースから得られる情報が膨大すぎて処理しきれない、あるいは互いに矛盾している場合があります。
- 対策: 体系的なデータ整理手法(アフィニティダイアグラム、ジャーニーマップ等)を徹底し、情報の階層化や関連性の可視化を行います。矛盾する情報は排除せず、なぜそれが存在するのか、異なる視点や文脈によるものかを探求することで、より深いインサイトにつながることもあります。専門的なデータ分析ツールや、AIを活用した情報整理・分析支援ツールの導入も有効検討できます。
- 多様なステークホルダー間の認識の違いや利害対立: 課題に対する認識がステークホルダー間で異なったり、解決策に対する期待や優先順位が衝突したりすることがあります。
- 対策: 定義フェーズの初期段階から主要なステークホルダーをプロセスに巻き込み、共感フェーズで得られた生の情報やインサイトを共有し、共通の理解を醸成する機会を設けます。ワークショップ形式で課題設定の議論を行い、多様な視点をテーブルに乗せ、ファシリテーターが中立的な立場で対話を促進することが重要です。課題設定における「誰にとって、どのような課題か」を明確にすることで、利害の対立を乗り越える糸口を見出せる場合があります。
- 曖昧さと不確実性: 問題状況自体が曖昧で、将来の変化が予測困難な場合があります。
- 対策: 一度で完璧な課題設定を目指すのではなく、現時点で最も確度の高い情報に基づいた「仮説としての課題設定」を行い、その後のフェーズ(発想、プロトタイピング、テスト)で繰り返し検証・修正していくアプローチを取ります。フューチャー・デザインやシナリオプランニングといった手法と連携し、複数の未来の可能性を考慮に入れた課題設定を行うことも有効です。
定義フェーズは、単なる分析作業ではなく、チームが収集した情報に対して「どのような意味があるのか」「何をすべきなのか」という解釈を与え、共通の「現実認識」と「目標」を構築する共同作業です。このプロセスにおけるファシリテーションの質が、複雑な状況下での成功を大きく左右します。多様な視点を受け入れ、建設的な対話を促し、合意形成をサポートするスキルが求められます。
チームでの実践ポイント
定義フェーズは、通常、複数メンバーから成るチームで実施されます。チームでの実践を効果的に進めるためには、以下の点が重要です。
- 共通の認識と目的: チームメンバー間で、定義フェーズの目的(真の課題設定と発想への繋ぎ)と、活用する手法(アフィニティダイアグラム、HMWなど)に対する共通の理解を持つことが重要です。プロセスの最初にこれらの点を明確に共有します。
- 多様な視点の尊重: チームメンバーそれぞれのバックグラウンドや専門性、リサーチで得られた情報に対する異なる解釈は、新たなインサイト発見の源泉となります。多様な視点を歓迎し、互いの意見に耳を傾けるチーム文化を醸成します。
- 視覚的なツールの活用: アフィニティダイアグラム、ジャーニーマップ、HMWクエスチョンリストなどを物理的またはデジタルなワークスペースで共有し、チーム全体で常に参照・更新できるようにします。視覚的なツールは、複雑な情報を整理し、チームの認識を合わせる上で非常に有効です。
- 定期的な振り返り: 定義フェーズの進行中、定期的に立ち止まり、これまでのプロセスや得られたインサイト、設定しようとしている課題についてチームで振り返ります。当初の仮説に囚われていないか、重要な情報を見落としていないかなどを確認し、必要に応じてアプローチを修正します。
結論
新規事業開発におけるデザイン思考の定義フェーズは、複雑な問題状況下で特にその重要性を増します。共感フェーズで得られた膨大かつ多様な情報から、真に解決すべき課題を特定し、その課題をその後の発想フェーズで創造的なアイデアを生み出すための適切な「問い」としてフレーミングするプロセスは、プロジェクトの成否を分ける生命線と言えます。
本記事では、アフィニティダイアグラムやジャーニーマップを用いたリサーチデータの整理・分析から、PoVステートメントやHMWクエスチョンによる課題のフレーミング、そして複数の課題候補の検討と絞り込みに至る具体的な実践方法について解説しました。また、複雑な問題状況特有の課題(情報の過多、ステークホルダー間の認識の違い、曖昧さ)に対する対策や、チームでの実践における重要なポイントについても言及しました。
定義フェーズの実践は、単なる分析スキルの問題ではなく、複雑な情報の中から意味を見出し、多様な視点を統合し、チームや関係者間で共通の理解とコミットメントを構築する、総合的な能力が求められるプロセスです。ここでの丁寧な取り組みが、その後の発想フェーズで革新的なアイデアを生み出し、プロダクトやサービスが市場で成功するための強固な土台となります。
新規事業開発において、定義フェーズでの停滞や課題設定の曖昧さに直面している場合、本記事で紹介した実践的なアプローチが、その状況を打開し、次のステップへ力強く進むための示唆となることを願います。複雑な問題に果敢に挑み、真のユーザー価値創造を目指すすべての方にとって、定義フェーズの質を高めることが、成功への鍵となるでしょう。