新規事業とデザイン思考

新規事業開発におけるデザイン思考:共感フェーズの深化と真のインサイト創出

Tags: デザイン思考, 新規事業開発, 共感フェーズ, インサイト創出, リサーチ手法

はじめに

新規事業開発において、革新的なアイデアやプロダクトを生み出すためには、ユーザー(顧客、利用者など)に対する深い理解が不可欠です。デザイン思考は、このユーザー中心のアプローチを体系的に実践するための強力なフレームワークとして広く認識されています。デザイン思考の初期段階である「共感(Empathize)」フェーズは、その後の全てのプロセス、すなわち「定義(Define)」、「アイデア創出(Ideate)」、「プロトタイプ(Prototype)」、「テスト(Test)」の質を決定づける最も重要な基盤となります。

しかしながら、多くの新規事業開発チームは、この共感フェーズにおいて表面的なユーザーニーズや意見の収集に留まり、真に解決すべき課題や隠された欲求、行動の背景にある文脈(インサイト)を見落としてしまうことがあります。その結果、開発されるソリューションは既存の枠を超えられず、市場で真の価値を提供できないという事態に陥る可能性があります。

本記事では、新規事業開発におけるデザイン思考の共感フェーズをいかに深化させ、表面的な情報から一歩踏み込んで、事業の成功に繋がる真のインサイトを創出するための実践的な手法とポイントについて解説します。デザイン思考の基礎知識を持つ方が、より高度な実践を目指すためのヒントを提供することを目指します。

共感フェーズの目的と核心

共感フェーズの根本的な目的は、単にユーザーの「何を言っているか」を聞くだけでなく、「なぜそう言っているのか」「何を考え、感じているのか」「どのような状況や文脈で行動しているのか」といった、その背景にあるものを深く理解することにあります。これは、ユーザー自身も気づいていない潜在的な課題や、矛盾する行動の理由など、隠されたインサイトを発見するための探求プロセスです。

なぜ真のインサイトが重要なのでしょうか。それは、競合他社が見過ごしている未開拓の機会を発見し、ユーザーにとって真に価値があり、既存のソリューションでは満たされていないニーズに応えるプロダクトやサービスを開発するための出発点となるからです。表層的な課題解決では、模倣されやすく、価格競争に陥る可能性が高まりますが、深いインサイトに基づいたソリューションは、ユーザーにとって代替が難しく、持続的な競争優位性を確立しやすくなります。

共感フェーズを深めることは、解決すべき「正しい課題」を定義するための核となります。課題定義が曖昧であったり、表層的であったりすると、その後のアイデア創出も表層的なものに留まり、結果として市場に受け入れられないプロダクトが生まれるリスクが高まります。

共感フェーズを深める実践手法

共感フェーズを深化させるためには、従来のインタビューやアンケートといった手法に加え、よりユーザーの深い部分や行動の文脈に迫るためのアプローチを組み合わせることが有効です。

定性リサーチの質を高める

  1. デプスインタビューの深化: 単に用意した質問に答えてもらうだけでなく、会話の流れの中でユーザーが最も感情を動かされた点や、矛盾するような発言があった点などを捉え、深掘りしていく傾聴スキルが求められます。「なぜそう思われたのですか」「具体的にどのような状況でしたか」「その時、どのように感じられましたか」といった、ユーザーの思考や感情の背景を探る質問を重ねることが重要です。また、言葉だけでなく、表情やジェスチャーなどの非言語情報からもインサイトを得る意識が必要です。共感マップなどのツールを事前に準備し、インタビュー中に気づきを整理するのも有効です。

  2. 行動観察(エスノグラフィ/コンテクスチュアル・インクワイアリー): ユーザーがプロダクトやサービスを使用する、あるいは関連する活動を行う自然な環境下で、その行動を観察する手法です。エスノグラフィはより長期間にわたり文化やコミュニティに深く入り込む研究手法ですが、デザイン思考においては、特定のユーザーの日常や特定のタスク遂行場面に焦点を当てた行動観察が有効です。 コンテクスチュアル・インクワイアリーは、ユーザーが実際に作業している場所で、その作業を観察しながら同時に会話を行う手法です。ユーザーは自身の行動や思考を言語化するのが難しい場合があるため、実際の行動を見ながら質問することで、潜在的な課題や工夫点を発見しやすくなります。 観察にあたっては、事前に観察対象とする行動や環境の要素を明確にし、ユーザーの同意を得るなど倫理的配慮を忘れてはなりません。観察記録は、見たこと、聞いたこと、感じたことを詳細に記述し、後で見返せるように整理します。

  3. ジャーニーマッピング/経験デザイン: ユーザーが特定の目標を達成するまでのプロセス(ジャーニー)を時系列で可視化する手法です。各ステップでユーザーがどのような行動を取り、何を考え、何を感じているかを記述します。これにより、ユーザーの体験全体におけるペインポイント(不満、困惑)やゲインポイント(喜び、満足)、そして隠れたニーズや期待を発見することができます。単に現在のジャーニーを描くだけでなく、理想的な未来のジャーニーをデザインする視点を持つことも、インサイトからアイデアへの橋渡しとなります。

多角的な情報収集と統合

ユーザーリサーチは、インタビューや観察だけではありません。オンライン上のレビュー、SNSの投稿、フォーラムでの議論、カスタマーサポートに寄せられた問い合わせ、既存の市場レポートや統計データなど、様々な情報源からインサイトの種を収集することができます。 これらの情報を単独で見るのではなく、組み合わせることで新たなインサイトが見出されることがあります。例えば、インタビューで示唆された仮説を、オンラインレビューの分析で多くのユーザーに共通する課題として確認するなど、定性情報と定量情報を組み合わせることで、インサイトの確度を高めることができます。

収集した情報からインサイトを創出するプロセス

共感フェーズで収集した情報は、単なる生データです。ここから真のインサイトを「創出」するためには、意図的な整理と分析のプロセスが必要です。

  1. 情報の整理と構造化: 収集した大量のメモ、写真、動画、音声記録などをチームメンバー全員で共有可能な形に整理します。代表的な手法として、アフィニティダイアグラムがあります。付箋などに情報を書き出し、物理的またはデジタルのホワイトボード上で、似た情報や関連性の高い情報をグルーピングしていきます。これにより、データの中に隠されたパターン、共通するテーマ、矛盾点などが浮かび上がってきます。

  2. パターン、矛盾、意外な発見に注目: 整理された情報の中から、特にユーザーの行動や発言におけるパターン(繰り返し見られる傾向)、矛盾(言っていることとやっていることが違う)、そして自分たちの予想とは異なる意外な発見に注意深く注目します。これらの多くが、深いインサイトの入り口となります。

  3. 隠されたニーズや動機を言語化: 浮かび上がったパターンや矛盾、意外な発見を元に、「なぜユーザーはそのように行動するのだろうか」「この行動の背景には何があるのだろうか」といった問いを立て、その答えを探求します。ユーザー自身も気づいていない、あるいは言語化できていない潜在的なニーズや動機を、チームで議論し、仮説を立て、言葉にしていくプロセスです。これがインサイトの言語化です。インサイトは単なる観察結果ではなく、「なぜ」や「どのように」といった理由や背景を含む、深い理解に基づいた洞察である必要があります。

  4. POV (Point Of View) / 課題ステートメントの明確化: 得られたインサイトは、「定義」フェーズで解決すべき課題を明確にするための核となります。インサイトを用いて、解決すべき課題を簡潔なステートメントとして定義します。一般的に「[誰が(ユーザー)]は、[何を必要としており(ニーズ)]、それはなぜなら[インサイトがあるから(深い理由)]」といった形式で表現されます。このPOVを明確にすることで、アイデア創出の方向性が定まります。

創出したインサイトを事業に活かす

創出されたインサイトは、単なる発見で終わらせてはなりません。それを次のアイデア創出フェーズへと繋げ、事業戦略やプロダクト開発に具体的に反映させていく必要があります。

  1. インサイトをアイデア創出の出発点とする: 定義されたPOVやインサイトを共有し、「私たちはどのようにすれば、このインサイトに基づいたユーザーのニーズを満たせるだろうか(How Might We...)」という形で問いを立て、ブレインストーミングなどのアイデア創出活動を行います。インサイトが具体的であるほど、アイデアもターゲットに即したものになりやすくなります。

  2. インサイトの共有とチーム内の共通理解醸成: インサイトは、それを発見したチームメンバーだけでなく、新規事業開発に関わる全員が共通理解として持つことが重要です。インサイトを効果的に伝えるためには、単に箇条書きで示すのではなく、ユーザーのストーリーを語る、ユーザーが体験したペインポイントをロールプレイングで示す、写真や動画を活用して臨場感を伝えるなど、共感を呼び起こすようなビジュアル的・感情的な手法を取り入れることが有効です。ペルソナやジャーニーマップを更新し、インサイトを盛り込むことも、チーム全体の理解を深める助けとなります。

  3. インサイトに基づいた仮説構築と検証計画: インサイトから生まれたアイデアは、まだ単なる仮説です。「このアイデアは、ユーザーのこのインサイトに基づいている。もしそうであれば、ユーザーはこのような行動を取るはずだ。」という仮説を立て、それを検証するための最小限の実験計画を立てます。リーンスタートアップのアプローチと組み合わせ、MVP(Minimum Viable Product)などを用いた迅速な検証を繰り返すことで、インサイトとアイデアの妥当性を確認していきます。

  4. インサイトが事業戦略や価値提案にどう反映されるか: 深いインサイトは、単なるプロダクトの機能開発に留まらず、事業全体の戦略や、ターゲット顧客への価値提案そのものに影響を与えます。インサイトが示唆する、これまで気づかれなかった市場機会や、競合との決定的な差別化ポイントを特定し、事業の方向性を定める羅針盤として活用することが求められます。

実践における留意点

共感フェーズの実践においては、いくつかの留意点があります。

結論

新規事業開発におけるデザイン思考において、共感フェーズは事業の成否を分ける要となります。表面的なユーザー理解に留まらず、エスノグラフィ、コンテクスチュアル・インクワイアリー、深化させたデプスインタビュー、ジャーニーマッピングといった実践的な手法を組み合わせ、ユーザーの深い文脈や隠されたニーズを捉えることで、真のインサイトを創出することが可能となります。

真のインサイトは、単なる発見ではなく、収集した情報を構造化し、パターンや矛盾の中から「なぜ」を問い続け、能動的に言語化していくプロセスを経て生まれます。そして、創出されたインサイトをチーム内で効果的に共有し、共通理解を醸成することで、次のアイデア創出、プロトタイピング、テストといったフェーズがよりユーザー中心で意味のあるものとなります。

共感フェーズの深化は容易な道のりではありませんが、そこに投資した時間と労力は、解決すべき正しい課題を見つけ、ユーザーに真に受け入れられる革新的なプロダクトやサービスを生み出すための強固な土台となります。本記事で紹介した手法や考え方が、貴社の新規事業開発における共感プロセスを深め、成功に繋がる真のインサイト創出の一助となれば幸いです。デザイン思考の実践においては、これらの手法を自社の状況に合わせて柔軟に取り入れ、試行錯誤を重ねていくことが重要です。