他業界に学ぶデザイン思考の実践:製造業、金融、ヘルスケアの成功事例とその応用
はじめに
新規事業開発やプロダクト開発において、デザイン思考はユーザー中心のアプローチを推進する強力なフレームワークとして広く認識されています。多くの組織でデザイン思考の導入や実践が進められていますが、特定の業界や文脈に特化した活用事例に触れる機会は比較的多いものの、異なる業界での多様な実践例から学ぶことで、自社の新規事業開発における視野を広げ、新たなアプローチを見出すことが可能になります。
本記事では、一見デザイン思考との関連が薄いと思われがちな製造業、顧客体験が重要視される金融業、そして複雑なステークホルダーが関わるヘルスケア業界におけるデザイン思考の活用事例に焦点を当てます。これらの異業種における具体的な実践内容とその成果を紹介し、そこから得られる示唆が、読者の皆様が携わる新規事業開発においてどのように応用できるのかを考察します。異なる文脈でのデザイン思考の適用方法を知ることは、自社の課題解決やイノベーション創出に向けた実践的なヒントとなるでしょう。
なぜ他業界の事例から学ぶことが重要か
デザイン思考は、共感、定義、アイデア創出、プロトタイピング、テストという5つのフェーズを核とする非線形的なプロセスです。このフレームワークは、業界や課題の種類を問わず適用可能であるという普遍性を持っています。しかし、各業界には独自の文化、規制、顧客特性、技術環境などが存在します。これらの特性に合わせてデザイン思考を適用する際には、プロセスの一部を強調したり、特定のツールや手法を重点的に活用したりするなど、細かな調整や工夫が必要となります。
他業界の事例から学ぶことは、自社の業界では見慣れないデザイン思考の適用方法や、異なる課題文脈でのフレームワークの柔軟な解釈を知る機会を提供します。これにより、自社の新規事業開発における固定観念を打ち破り、より創造的かつ効果的なアプローチを取り入れるための示唆を得ることができます。また、特定の業界で成功したデザイン思考の「型」が、自社の課題に対しても有効である可能性を検討するきっかけにもなります。
製造業におけるデザイン思考の活用事例
製造業は、長らく効率性や品質管理を最優先とする文化が根強く存在してきました。しかし、製品の高機能化やサービスのコモディティ化が進む現代において、単なるモノづくりから顧客体験価値の提供へと事業の軸足を移す重要性が認識されています。デザイン思考は、このような製造業の変革を推進するための有効な手段として活用されています。
具体的な事例:顧客体験に基づく製品・サービス開発
ある製造業企業では、新規の家電製品開発にあたり、単に技術的な優位性を追求するだけでなく、ユーザーが製品をどのように購入し、開封し、使用し、手入れし、廃棄するまでの全過程を体験として捉え直すためにデザイン思考を導入しました。共感フェーズでは、ターゲット顧客の家庭を訪問し、製品使用における潜在的な課題や不満を詳細に観察・インタビューしました。これにより、ユーザー自身も言語化できていなかった「隠れたニーズ」や、既存製品では解決されていない「ペインポイント」を深く理解しました。
続く定義フェーズでは、収集したインサイトをもとに、解決すべき本質的な課題を明確に定義しました。例えば、「製品の設置や初期設定の煩雑さ」「清掃の手間」「廃棄時の分別の難しさ」などが課題として浮上しました。アイデア創出フェーズでは、これらの課題に対して、多様なバックグラウンドを持つチームメンバーがブレインストーミングやアイデアソンを実施し、従来の技術視点だけでは生まれなかった斬新な解決策を生み出しました。プロトタイピングとテストを通じて、ユーザーにとって本当に価値のある製品機能や付随サービス(例:設置サポート、清掃しやすい設計、リサイクルプログラム)が具現化され、最終的にユーザー体験全体を最適化した製品として市場に投入されました。
得られる示唆
製造業の事例からは、製品そのものの性能だけでなく、製品を取り巻く一連のユーザー体験全体をデザイン思考の対象とすることの重要性が示唆されます。また、エンジニアリング部門だけでなく、マーケティング、サービス、営業など、多様な部門の連携が不可欠であることがわかります。デザイン思考は、部門間の壁を取り払い、顧客中心の視点を共有するための共通言語やプロセスを提供します。
金融業におけるデザイン思考の活用事例
金融サービスは、かつては専門的で堅いイメージがありましたが、近年はフィンテックの台頭や顧客ニーズの多様化により、デジタル化と顧客体験の向上が急務となっています。金融機関もデザイン思考を取り入れ、サービスの利用者にとってより分かりやすく、使いやすく、信頼できる体験を設計しようとしています。
具体的な事例:顧客中心のデジタルサービス設計
ある銀行では、モバイルバンキングアプリの利用者離れという課題に直面し、原因を探るためにデザイン思考を適用しました。共感フェーズでは、様々な年齢層やデジタルリテラシーを持つ顧客に対して、アプリの利用状況に関する詳細なインタビューやユーザビリティテストを実施しました。これにより、特定の操作が分かりにくい、専門用語が多い、エラーメッセージが不親切、といった具体的な課題が明らかになりました。さらに、顧客がアプリを使う際の感情や置かれている状況(例:電車の中、支払い期限が迫っている時)まで深く掘り下げて理解しました。
定義フェーズでは、「顧客がストレスなく、いつでも安心して取引を完了できる体験」を課題として設定しました。アイデア創出フェーズでは、ユーザビリティの専門家、ITエンジニア、サービスデザイナー、窓口業務担当者などが集まり、課題解決に向けた多数のアイデアを創出しました。プロトタイピングでは、紙芝居形式のワイヤーフレームから始まり、インタラクティブなモックアップへと段階的に詳細化し、継続的に顧客からのフィードバックを得ながら改善を重ねました。このプロセスを通じて、直感的で分かりやすいナビゲーション、平易な言葉遣い、適切なタイミングでのサポート機能などを備えた新しいアプリが開発されました。
得られる示唆
金融業の事例からは、顧客がサービスを利用する際の「感情」や「文脈」を深く理解することの重要性が強調されます。また、複雑な情報を分かりやすく伝えるための情報デザインやインタラクションデザインのスキルがデザイン思考のプロセスに不可欠であることがわかります。規制が多く、リスク管理が厳格な金融業界においても、デザイン思考の反復的なアプローチは、リスクを抑えながら革新的なサービスを生み出すための有効な手段となり得ます。
ヘルスケアにおけるデザイン思考の活用事例
ヘルスケア分野は、患者、医療従事者、家族、行政、研究機関など、非常に多様かつ複雑なステークホルダーが関わる領域です。また、人々の生命や健康に関わるため、高い安全性と信頼性が求められます。デザイン思考は、このような複雑なシステムの中で、患者体験の向上、医療従事者の働き方改善、効率的な医療提供体制の構築などに活用されています。
具体的な事例:患者体験と医療従事者の両立
ある病院では、外来患者の待ち時間が長い、診察プロセスが分かりにくい、といった課題に対し、患者と医療従事者の双方にとってより良い体験を設計するためにデザイン思考を導入しました。共感フェーズでは、患者の視点からは病院に来てから帰るまでの全ての動線や感情の変化を、医療従事者の視点からは業務負荷やコミュニケーションの課題を深く理解しました。患者インタビューやシャドウイング(影のように追跡観察)に加え、医療従事者へのヒアリングや業務観察を行いました。
定義フェーズでは、「患者が安心して、スムーズに、納得感を持って診療を受けられる体験」と「医療従事者が患者と向き合う時間を確保し、専門性に集中できる環境」という二つの側面から課題を再定義しました。アイデア創出フェーズでは、患者代表、医師、看護師、事務スタッフ、デザイナーなどが集まり、予約システムの改善、待合室の設計変更、情報提供の方法の見直し、院内サインの改善、医師と患者間のコミュニケーションツールの導入など、多角的なアイデアを生み出しました。プロトタイピングでは、待合室のレイアウトをシミュレーションしたり、新しい案内表示を作成してテストしたり、模擬的な診察シナリオでコミュニケーションツールを試したりしました。
得られる示唆
ヘルスケア分野の事例からは、多岐にわたるステークホルダーの視点を取り入れ、それぞれのニーズや制約を考慮しながら全体最適な解を見出すことの難しさと重要性が示唆されます。デザイン思考は、異なる専門性を持つ人々が共通の目標に向かって協働するためのフレームワークとして機能します。また、単一のプロダクトやサービスだけでなく、複雑なシステムやプロセス全体をデザインの対象とすることの可能性を示しています。倫理的な配慮や規制順守が特に重要となるこの分野では、デザイン思考の反復・検証プロセスがリスク低減にも寄与します。
自社の新規事業開発への応用
これらの他業界の事例は、自社の新規事業開発においても多くの示唆を与えてくれます。重要なのは、単に他社の成功事例を模倣するのではなく、その成功の背景にあるデザイン思考の思考プロセスや適用方法を理解し、自社の文脈に合わせて応用することです。
- 課題の再定義: 他業界でデザイン思考がどのような課題に対して有効であったかを理解することで、自社の新規事業アイデアがどのような「人の課題」を解決しようとしているのかを改めて問い直すことができます。
- ターゲット顧客の拡大: 他業界の顧客理解アプローチを知ることで、これまで想定していなかった顧客層や、顧客の異なる側面(例:感情、状況、文化)に目を向けるきっかけを得られます。
- プロトタイピング手法の多様化: 製造業の物理的なプロトタイピングやヘルスケアのサービスフローのシミュレーションなど、自社の業界では一般的でないプロトタイピング手法から学び、アイデア検証の幅を広げることができます。
- クロスファンクショナルな連携: 他業界で多様なステークホルダーを巻き込んでいる事例は、自社内の異なる部門や、顧客、パートナー企業など、社内外の様々な関係者との協働をどのように設計すべきかのヒントとなります。
- 成果の捉え方: 各業界でのデザイン思考の成果が、売上や効率だけでなく、顧客満足度、従業員エンゲージメント、社会的な影響など多様であることを理解し、自社の新規事業の成功指標をより包括的に設定する参考にできます。
自社の新規事業開発チーム内でこれらの事例を共有し、ディスカッションを通じて「もし我々が製造業/金融/ヘルスケア業界の課題に取り組むとしたら、デザイン思考をどう使うか?」といった思考実験を行うことも有効です。これにより、チームメンバーの視点が広がり、普段見過ごしている自社事業の課題や機会に気づくことがあります。
結論
本記事では、製造業、金融業、ヘルスケア業界におけるデザイン思考の活用事例を紹介し、それぞれの業界特性に応じたアプローチやそこから得られる示唆を考察しました。これらの事例から、デザイン思考が多様な業界・文脈において、製品・サービス開発、顧客体験向上、プロセス改善、ステークホルダー間の協働促進など、様々な課題解決に貢献していることがご理解いただけたかと思います。
自社の新規事業開発においてデザイン思考をより深く実践し、複雑な課題に対応していくためには、自社の業界の慣習に囚われず、他業界の成功事例から学ぶ姿勢が重要です。異なる分野でのデザイン思考の柔軟な適用方法や、特定のフェーズでどのような工夫がなされているかを知ることは、自社のチームが直面するであろう課題に対して、新たな解決の糸口を見出す助けとなるでしょう。
今後、自社の新規事業開発においてデザイン思考を実践する際には、これらの他業界事例を参考に、自社の課題、ターゲット顧客、組織文化に最適なアプローチを検討してみてください。異なる文脈での実践知を取り入れることで、より堅牢で、創造的な新規事業を生み出すことが期待されます。