新規事業開発におけるデザイン思考:不確実性下での戦略策定とポートフォリオ意思決定への応用
新規事業開発における不確実性と意思決定の課題
新規事業開発は本質的に高い不確実性を伴います。市場の変動、技術の進化、競合環境の変化、そしてユーザーニーズの潜在性など、未知の要素が多岐にわたるため、従来の線形的な計画策定や、過去のデータに基づいた意思決定だけでは十分に対応することが困難です。特に、複数の新規事業候補が存在する場合、限られた経営資源をどの事業に配分し、どのようにポートフォリオを構築・管理していくかは、企業の将来を左右する重要な経営課題となります。
このような不確実性の高い状況下では、詳細な計画よりも、仮説検証を繰り返しながら学習し、柔軟に方向転換できるアプローチが求められます。また、意思決定のプロセスにおいては、定量的なデータだけでなく、定性的な洞察や将来の可能性に対する深い理解が不可欠となります。
デザイン思考は、ユーザー中心のアプローチ、探索的なリサーチ手法、迅速なプロトタイピングと実験による学習、そして多様な視点を取り入れた共創プロセスを特徴としており、この不確実性の高い新規事業開発の戦略策定やポートフォリオ意思決定において、従来のフレームワークを補完し、新たな視点を提供する可能性を秘めています。
デザイン思考が戦略策定にもたらす価値
デザイン思考の原則と手法は、新規事業開発のより上流にある戦略策定の段階においても有効に機能します。具体的には、以下の点に貢献します。
1. 真の機会領域の発見
デザイン思考の「共感」フェーズで行われるユーザーリサーチやフィールドワークは、既存市場の分析だけでは見えにくい潜在的なニーズや、社会構造の変化から生まれる新たな課題を浮き彫りにします。これにより、単なる技術シーズの活用や競合模倣ではなく、ユーザーや社会にとって真に価値のある、持続可能な事業機会を発見する可能性が高まります。深い洞察に基づいた機会領域の特定は、戦略の方向性を定める上で極めて重要です。
2. ユーザー中心のビジョン・コンセプト共創
デザイン思考は、多様なステークホルダー(ユーザー、従業員、パートナー、地域社会など)を巻き込んだ共創プロセスを重視します。これにより、一方的な理想論ではなく、様々な視点を取り入れた、より現実的で魅力的な事業ビジョンやコンセプトを練り上げることが可能になります。未来のユーザー体験を具体的に描き出すことで、戦略の抽象度を下げ、関係者間の共通理解を促進します。
3. 仮説ベースの戦略構築と検証
デザイン思考におけるプロトタイピングとテストの考え方は、戦略策定にも応用できます。初期段階から詳細なマスタープランを作成するのではなく、「どのようなユーザーに、どのような価値を提供すれば、どのように収益が生まれるか」といった主要な戦略仮説を立て、MVP(Minimum Viable Product)や簡易的なシミュレーション、コンセプトテストなどを通じて、市場やユーザーの反応を見ながら検証を進めます。この学習ループを通じて、戦略をより強固なものに修正・発展させていきます。
デザイン思考によるポートフォリオ意思決定の変革
デザイン思考は、複数の新規事業候補を評価し、経営資源を配分するポートフォリオ意思決定プロセスにおいても、新たな基準や視点を提供します。
1. ポートフォリオ評価軸の拡張
従来のポートフォリオ評価では、市場規模、収益性、技術的な実現可能性、競合優位性などが重視される傾向があります。デザイン思考の視点を取り入れることで、これらに加えて以下の要素を評価軸に組み込むことが可能になります。
- ユーザー価値と社会への影響: 潜在的なユーザーニーズを満たす可能性、解決する社会課題のインパクト、倫理的な側面。
- 学習機会: 事業を通じて新たな市場洞察や技術的知見を獲得する可能性、組織全体のケイパビリティ向上への貢献。
- 既存事業とのシナジー(非金銭的側面含む): ブランド価値向上、顧客接点拡大、組織文化へのポジティブな影響。
これらの定性的要素を評価に取り入れることで、短期的な財務リターンだけでなく、長期的な企業価値向上に繋がる多様な可能性を秘めた事業をポートフォリオに組み込む判断がしやすくなります。
2. 意思決定プロセスのデザイン
不確実性の高い新規事業においては、一度の決定で全てが決まるわけではありません。デザイン思考の「小さな実験を繰り返し、学習に基づいて進む」という考え方は、段階的な投資判断に適しています。
- フェーズゲートの見直し: 各フェーズ(共感、定義、発想、プロトタイプ、テスト)の成果物や学習内容を重要な意思決定ポイントとし、投資判断基準に組み込みます。例えば、共感フェーズで深いインサイトが得られなかった場合、その後の投資を抑制するといった判断が可能になります。
- 多様なシナリオの検討: デザイン思考のリサーチや共創で探索された複数の未来シナリオに基づき、それぞれのシナリオ下での事業の可能性やリスクを評価します。単一の予測に基づくのではなく、不確実性を許容し、複数の選択肢を同時に、あるいは段階的に追求するポートフォリオ戦略を構築します。
- 意思決定の透明性と共創: 意思決定に関わる多様な関係者(経営層、事業部、開発チーム、デザイナーなど)が、デザイン思考のプロセスで得られた定性的な洞察やプロトタイプの体験を共有し、共通理解に基づいた意思決定を行うための場やツールを設計します。
3. 既存事業との連携とポートフォリオ全体の調和
新規事業候補を評価する際には、それが既存の事業ポートフォリオ全体の中でどのような位置づけになり、どのような影響を与えるかを検討する必要があります。デザイン思考の手法、例えばカスタマージャーニーマップやサービスブループリントを用いて、新規事業が既存事業の顧客体験やオペレーションとどのように連携するかを可視化し、ポートフォリオ全体の調和やシナジーの可能性を評価します。
実践上の考慮事項
デザイン思考を戦略策定やポートフォリオ意思決定に応用する際には、いくつかの重要な考慮事項があります。
- 経営層の理解とコミットメント: デザイン思考が短期的な成果だけでなく、長期的な探索と学習に価値を置くアプローチであることを経営層が理解し、プロセスに対する信頼を持つことが不可欠です。
- 既存の意思決定プロセスとの統合: デザイン思考のアプローチを、既存の経営計画プロセスや投資判断プロセスにどのように組み込むかを設計する必要があります。定性的な成果物(インサイト、カスタマージャーニー、プロトタイプの検証結果など)を、定量的なデータと共に意思決定のインプットとしてどのように扱うかが鍵となります。
- 適切な人材とチーム: 戦略策定やポートフォリオ判断に関わるチームに、デザイン思考の実践経験を持つメンバーや、定性的な洞察を構造化・言語化できるスキルを持つメンバーが含まれていることが望ましいです。
- 成果の評価: デザイン思考を用いた戦略策定やポートフォリオ判断の成果をどのように評価するのか、評価基準を明確に定める必要があります。短期的な財務成果だけでなく、新しい市場機会の発見、学習の質、組織の適応力向上といった側面も評価対象とすることが考えられます。
結論
不確実性が高まる現代において、新規事業開発の成功は、単なる実行力だけでなく、リスクを管理しながら機会を探索し、柔軟に戦略を修正していく能力に大きく依存します。デザイン思考は、そのユーザー中心、実験的、共創的なアプローチを通じて、従来の戦略策定やポートフォリオ意思決定プロセスに新たな視点と手法をもたらします。
デザイン思考の原則を経営レベルの意思決定に応用することで、企業は不確実性を単なる脅威ではなく、探索と学習による成長の機会として捉えることができるようになります。真のユーザー価値に基づいた戦略を構築し、多様な可能性を秘めた事業をバランス良くポートフォリオに配置していくことが、持続的なイノベーションと企業価値向上への鍵となるでしょう。今後、新規事業開発におけるデザイン思考の実践は、個別プロジェクトの進め方だけでなく、組織全体の戦略的意思決定フレームワークの一部として、ますます重要性を増していくと考えられます。