新規事業開発におけるデザイン思考:顧客体験(CX)と従業員体験(EX)を統合する実践アプローチ
新規事業におけるCXとEX統合の重要性
新規事業開発において、成功の鍵は顧客に提供する価値の創造にあります。この価値は、単にプロダクトやサービスそのものだけでなく、顧客がそのプロダクトやサービスと接する一連の体験、すなわち顧客体験(CX)によって大きく左右されます。しかし、優れたCXを提供するためには、顧客と直接接する従業員だけでなく、事業を支える組織全体の従業員がポジティブで生産的な体験をしていること、すなわち従業員体験(EX)が不可欠です。
CXとEXは密接に関連しており、一方の質はもう一方に直接的な影響を与えます。従業員が自社の事業やサービスに誇りを持ち、顧客に最高の体験を提供するためのツールや権限、そして支援を受けていると感じられれば、それは顧客満足度向上に繋がります。逆に、従業員が不満を抱えていたり、適切なプロセスやシステムがなかったりすれば、それは顧客へのサービス品質の低下を招き、CXを損なう可能性があります。
特に新規事業においては、前例がない状況での不確実性が高く、迅速な対応や柔軟な意思決定が求められます。この過程で、従業員が主体的に考え、行動できる環境が重要になります。デザイン思考は、このような状況下でCXとEX双方を同時に向上させ、持続可能な事業成長を実現するための強力なアプローチを提供します。本稿では、新規事業開発の文脈でデザイン思考を用いてCXとEXを統合的に設計する実践的なアプローチについて解説します。
デザイン思考によるCX/EX統合アプローチの基盤
デザイン思考は、人間中心のアプローチを通じて革新的なソリューションを生み出すためのフレームワークです。共感(Empathize)、定義(Define)、創造(Ideate)、プロトタイプ(Prototype)、検証(Test)という5つのフェーズを通じて、ユーザー(ここでは顧客と従業員双方)の深いニーズと課題を理解し、実行可能なアイデアを生み出し、検証を繰り返しながら精度を高めていきます。
CX/EX統合設計においてデザイン思考を適用する際の基盤となるのは、以下の点です。
- 人間中心性: 顧客と従業員、双方を等しく「人間」として深く理解することを起点とします。両者の視点から、彼らが直面する課題、ニーズ、感情、モチベーションを洞察します。
- 全体論的視点: 顧客体験と従業員体験を個別のものとして捉えるのではなく、一つの統合されたシステムの一部として捉えます。事業活動全体を通して、顧客と従業員がどのように相互作用し、互いの体験に影響を与え合うかを分析します。
- 反復と実験: 初期段階から完璧を目指すのではなく、プロトタイピングと検証を繰り返しながら、顧客と従業員双方にとって最適な体験設計を探求します。
デザイン思考の各フェーズにおけるCX/EX統合実践
デザイン思考の各フェーズで、CXとEXを統合的に扱う具体的な実践方法について詳述します。
1. 共感(Empathize)フェーズ
このフェーズの目的は、顧客と従業員双方の視点から、彼らが経験する現実、課題、ニーズ、隠れた感情を深く理解することです。
- 顧客と従業員への等しいリサーチ: 顧客インタビュー、観察、フィールドスタディに加え、従業員インタビュー、シャドウイング(業務同行観察)、ワークショップ、アンケートなどを実施します。異なる部署や役割の従業員(顧客と直接接するフロントラインから、バックオフィス、開発チームまで)から幅広くインサイトを収集します。
- 統合的なペルソナ作成: 顧客ペルソナに加え、主要な従業員セグメントに対する従業員ペルソナを作成します。さらに、特定の顧客ジャーニーにおける従業員の役割や感情を捉えるためのペルソナも検討します。
- カスタマージャーニーマップとエンプロイージャーニーマップの作成: 顧客がサービスやプロダクトと接する一連の体験を可視化するカスタマージャーニーマップを作成します。同時に、そのジャーニーを支える従業員の体験(業務プロセス、使用ツール、感情、課題など)を可視化するエンプロイージャーニーマップを作成します。この段階で、両ジャーニーを並列に配置することで、顧客の特定のタッチポイントで従業員がどのような状況にあるのかを把握し、相互の関連性を理解します。
2. 定義(Define)フェーズ
共感フェーズで得られた膨大なデータとインサイトを分析し、解決すべき真の課題を定義します。CXとEXの関連性を明確に捉えた課題設定が重要です。
- インサイトの統合分析: 顧客と従業員双方から得られたインサイトを横断的に分析します。「顧客がOOOに不満を感じているのは、従業員がXXXという課題を抱えているからではないか?」のように、両者の課題がどのように連鎖しているのかを洞察します。
- 統合的な課題定義: 「どのようにすれば、XXXという課題を抱える従業員が、OOOを求める顧客に対して、最高のYYY体験を提供できるようになるか?」といった形で、顧客と従業員の課題を統合した「How Might We」(どうすれば〜できるか)問いを生成します。例えば、「どうすれば、手続きに戸惑う顧客に対し、迅速かつ自信を持って対応できるよう、社内システムに不満を感じているオペレーターを支援できるか?」などです。
- サービスブループリントの活用: サービスブループリントは、顧客の行動、顧客と従業員の接点(フロントステージ)、それを支える従業員の活動(バックステージ)、そしてサポートプロセスや物理的証拠などを一つの図にまとめる強力なツールです。デザイン思考の定義フェーズでこれを用いることで、特定のCXを生み出すために必要なEXや、その背後にあるプロセス、システムを可視化し、課題の根本原因特定に役立てることができます。CX/EX統合においては、ブループリント上の各要素が顧客・従業員双方の体験にどう影響するかを分析します。
3. 創造(Ideate)フェーズ
定義された課題に対し、多様な視点から自由な発想で解決策を生み出すフェーズです。顧客体験と従業員体験双方を向上させるアイデアを共創することが鍵となります。
- クロスファンクショナルなアイデア創出: 顧客、顧客対応担当者、開発者、マーケター、人事担当者など、多様なバックグラウンドを持つメンバーを集め、アイデアソンやワークショップを実施します。顧客視点と従業員視点の両方から、課題解決に向けたアイデアを出し合います。
- 両利きの探求: 顧客にとっての革新的な体験と、従業員にとっての効率的かつポジティブな体験、その両立を目指すアイデアを探求します。例えば、顧客向けの新しいデジタルサービスが、同時に従業員の定型業務を削減し、より付加価値の高い顧客対応に集中できるような仕組みなどです。
- ステークホルダーマップと共創: 関係者(顧客、従業員、パートナー、サプライヤーなど)を洗い出し、彼らの相互関係や影響力を可視化するステークホルダーマップを作成します。特に、従業員体験に影響を与える可能性のある社内外のステークホルダー(IT部門、人事部門、外部ベンダーなど)を巻き込んだ共創の機会を設けることで、より実行可能で包括的なアイデアが生まれやすくなります。
4. プロトタイプ(Prototype)フェーズ
アイデアを具体的な形にし、試すためのフェーズです。完璧を目指すのではなく、検証に必要な最低限の機能や体験を素早く構築します。
- 統合的なプロトタイピング: 顧客向けのインターフェース(Webサイトのモックアップ、アプリのプロトタイプなど)だけでなく、それを支える従業員向けのツールや新しい業務プロセス、トレーニング方法などもプロトタイプ化します。例えば、顧客が新しいサービスを申し込む際の画面プロトタイプと同時に、その申し込みを処理する従業員が使用する管理画面のプロトタイプを作成し、両方を体験できるようにします。
- サービス体験のシナリオ化と演劇: 顧客と従業員が関わるサービス体験全体をシナリオ化し、ロールプレイングやサービス演劇(Service Staging)を行います。これにより、プロトタイプが実際の状況でどのように機能するか、顧客と従業員双方の感情や行動はどうなるかを具体的にシミュレーションし、課題や改善点を発見します。
- 低コストでの反復: デジタルプロトタイプ、ペーパープロトタイプ、モックアップ、簡単なワークフロー図など、様々な形式のプロトタイプを低コストで作成し、素早く反復します。
5. 検証(Test)フェーズ
作成したプロトタイプを実際のユーザー(顧客と従業員)に体験してもらい、フィードバックを収集します。このフィードバックを基に、プロトタイプやアイデアを改善し、必要であれば前のフェーズに戻ります。
- 顧客と従業員への同時テスト: 可能であれば、実際の顧客と、その顧客対応を行う従業員の両方にプロトタイプを同時に試してもらい、相互作用を含めたフィードバックを収集します。例えば、新しいオペレーションツールを従業員に試してもらいながら、そのツールを使用した顧客対応を受けた顧客に体験について尋ねるなどです。
- 定性・定量データの収集: プロトタイプ使用時の観察、インタビューによる定性的なフィードバックに加え、利用時間、エラー発生率、タスク完了率、満足度などの定量的なデータも収集します。
- 学びの統合と改善: 収集したフィードバックを分析し、「この機能は顧客には好評だが、従業員にとっては負担が大きい」「この業務フローは効率的だが、従業員のモチベーションを下げる可能性がある」といった、CXとEX間のトレードオフや相乗効果に関する学びを特定します。これらの学びを基に、プロトタイプや根本的なアイデア自体を改善し、次の反復につなげます。
CX/EX統合設計における組織的な課題と乗り越え方
デザイン思考を用いたCX/EX統合設計の実践には、組織横断的な連携と文化的な変化が不可欠です。プロダクト開発部マネージャーが直面しうる課題と、その解決に向けた示唆を以下に挙げます。
- 部署間のサイロ化: 顧客部門、開発部門、人事部門、IT部門などが縦割りの組織構造の中で孤立し、情報共有や連携が不足している場合、CXとEXの統合的な視点を持つことが困難になります。
- 解決策: クロスファンクショナルなチーム編成を推進し、共通の目標(例: 特定のジャーニーにおけるCX/EXスコア向上)を設定します。定期的な合同ワークショップや情報共有会を実施し、異なる部門のメンバーが互いの視点や課題を理解する機会を創出します。サービスブループリントのような共通ツールを用いて、全体像を可視化し、部署間の連携ポイントや課題を明確にします。
- 優先順位付けの難しさ: CX向上とEX向上のどちらを優先すべきか、あるいはどのように両立させるかの判断が難しい場合があります。
- 解決策: 事業の長期的な成功という視点から、CXとEXの連鎖効果(サービス・プロフィット・チェーンなど)を理解し、経営層を含む関係者間で共通認識を形成します。優先順位付けには、顧客・従業員双方への影響度、実現可能性、コスト、事業への貢献度などの評価基準を設定し、デザイン思考の検証フェーズで得られたデータに基づいて客観的に判断します。
- 従業員の参加促進: 日々の業務に追われる中で、デザイン思考プロセスへの従業員の積極的な参加を得ることが難しい場合があります。
- 解決策: デザイン思考活動の重要性、参加することによるメリット(業務改善、新しいスキルの獲得、事業への貢献実感など)を明確に伝えます。経営層が従業員参加を奨励する姿勢を示し、参加のための時間的・物理的なリソースを確保します。従業員が安心して意見を表明できる心理的安全性の高い場を提供します。
成功事例からの示唆
他業界におけるCX/EX統合への取り組みは、新規事業開発においても多くの示唆を与えます。例えば、ある金融機関では、顧客がローンを申し込むプロセスを改善するために、顧客ジャーニーと同時に、その申し込み処理を行う従業員(支店担当者、審査担当者、バックオフィス担当者など)のジャーニーを詳細に分析しました。その結果、顧客の離脱要因の多くが、従業員が直面する非効率なシステムや煩雑な手作業に起因していることを発見し、顧客向けインターフェースと従業員向けツールの両方をデザイン思考に基づいて再設計しました。これにより、顧客の申込体験がスムーズになっただけでなく、従業員の業務負担が軽減され、顧客対応の質が向上し、結果として成約率が向上しました。
また、あるサービス業の事例では、従業員の離職率が高いことがCXの質に悪影響を与えているという課題に対し、従業員体験の向上に焦点を当てました。デザイン思考を用いて従業員の働く環境、使用するツール、トレーニングプロセス、キャリアパスなどを多角的に調査し、従業員のエンゲージメントを高めるための新たな人事制度やツール、コミュニケーション施策を導入しました。従業員の満足度や定着率が向上した結果、サービス提供の質が安定し、顧客満足度も向上しました。
これらの事例は、CXとEXを切り離さずに、統合的にアプローチすることの有効性を示しています。新規事業においても、初期段階からプロダクトやサービスだけでなく、それを支える「人」(従業員)とその「体験」をデザインの対象とすることが、持続的な競争優位性を築く上で不可欠です。
結論
新規事業開発の成功には、優れた顧客体験(CX)の提供が不可欠であり、その実現には従業員がポジティブな体験(EX)をすることが強く影響します。デザイン思考は、このCXとEXを統合的に捉え、人間中心のアプローチで革新的な解決策を生み出すための有効なフレームワークです。
共感、定義、創造、プロトタイプ、検証というデザイン思考の各フェーズにおいて、顧客と従業員双方の視点から深いインサイトを獲得し、両者の体験の連鎖を理解した上で課題を定義し、クロスファンクショナルなチームでアイデアを生み出し、統合的なプロトタイピングと検証を繰り返すことが、CX/EX統合設計の実践において重要です。
組織的なサイロ化や優先順位付けの課題を乗り越え、従業員の積極的な参加を促すためには、リーダーシップによる明確なビジョン提示、部門横断的な連携の仕組みづくり、心理的安全性の醸成が求められます。
新規事業におけるデザイン思考の実践者は、プロダクトやサービスの機能開発に留まらず、それを運用し提供する従業員の体験、そして組織全体が顧客と従業員双方にとって価値ある場となるようにデザインを拡張していく視点が不可欠です。本稿で解説したアプローチが、読者の皆様の新規事業開発における複雑な課題解決の一助となれば幸いです。