新規事業開発におけるデザイン思考:リサーチから真のインサイトを引き出す分析実践
新規事業開発におけるリサーチデータの分析とインサイト抽出の重要性
新規事業開発において、ユーザーへの深い理解は成功の礎となります。デザイン思考のプロセスにおけるリサーチフェーズでは、ユーザーインタビュー、観察、フィールド調査などを通じて、ユーザーの行動、ニーズ、課題、そして潜在的な欲求に関する膨大な定性データが収集されます。しかし、これらのデータが単なる情報の羅列に留まることなく、真の価値ある「インサイト」へと昇華されるためには、体系的かつ洞察に満ちた分析プロセスが不可欠です。
表層的なニーズや顕在化した課題のみに注目することは、競合他社も容易に発見できる領域に留まり、差別化された価値提供や革新的なソリューション開発につながりにくい可能性があります。真のインサイトとは、ユーザー自身も言語化できていない深層的な動機や、特定の文脈下での行動の背景にある無意識的な要因など、課題の根本原因や潜在的な機会を示唆する本質的な洞察です。このようなインサイトを発見することで、既存の枠にとらわれない、顧客にとって真に価値のある新規事業アイデアの発想が可能になります。
本稿では、新規事業開発におけるデザイン思考の実践において、リサーチで得られたデータをどのように分析し、真のインサイトを効果的に引き出すかについて、具体的な手法と実践上のポイントを解説します。
リサーチデータの種類と分析の準備
デザイン思考におけるリサーチデータは多岐にわたります。主なものとして、以下の種類が挙げられます。
- ユーザーインタビュー: 個別のユーザーから直接語られる体験、感情、意見、課題。
- 観察・エスノグラフィ: 特定の環境下でのユーザーの行動、相互作用、物理的・社会的な文脈。
- ジャーナル・日記調査: 長期間にわたるユーザーの自己記録。
- 二次情報調査: 既存の統計データ、市場レポート、文献、オンライン上のレビューなど。
これらのデータは、テキスト(書き起こし、メモ)、画像、音声、動画など、様々な形式で収集されます。分析を開始する前に、以下の準備を行うことが推奨されます。
- データの整理と構造化: 収集したすべてのデータを一元的に集約し、種類やユーザーごとに整理します。インタビューの書き起こし、観察メモ、写真などをデジタル形式で管理すると、後の分析が容易になります。
- チームメンバー間の共有: 可能な限り、リサーチに参加したチームメンバー全員が収集された生データにアクセスし、共有する機会を設けます。データに触れることで、分析時の解釈の深まりにつながります。
- 分析ツールの検討: データの量に応じて、アフィニティダイアグラム作成ツール、オンラインホワイトボードツール、質的データ分析ソフトウェアなどの活用を検討します。
データ分析の基本的なアプローチ:構造化と可視化
収集した定性データを分析する第一歩は、データを構造化し、可視化することです。これにより、データの全体像を把握し、共通するパターンや特徴、そして意外な発見を見つけやすくなります。
1. アフィニティダイアグラム(KJ法)
アフィニティダイアグラムは、個々のデータポイント(ユーザーの発言、観察された行動など)を小さなカードや付箋に書き出し、それらを類似性や関連性に基づいてグループ化していく手法です。
- 手順:
- 収集したデータから、重要だと思われる個々の事実、発言、観察結果などを短いフレーズでカードに書き出します。
- これらのカードをチームメンバーで共有し、関連性の高いものを物理的に、あるいはデジタルツール上で近くに配置していきます。
- グループ化された塊に対して、そのグループの内容を最もよく表す見出し(ラベル)をつけます。
- さらに大きな構造や関係性が見えないか、グループ間の関連性などを検討します。
アフィニティダイアグラムを作成することで、膨大なデータの中に隠れたパターンや傾向、ユーザーの様々な側面(行動、思考、感情、環境など)に関するテーマが浮かび上がってきます。
2. ペルソナ作成
ペルソナは、リサーチデータに基づいて構築される、ターゲットユーザーを代表する架空の人物像です。年齢、職業といったデモグラフィック属性だけでなく、目標、課題、フラストレーション、動機、利用シーンなどを詳細に記述します。
- 手順:
- リサーチデータから、異なるタイプのユーザーに共通する特徴や行動パターンを特定します。
- それぞれのタイプを代表するペルソナを設定し、具体的な名前、顔写真(イメージ)、バックグラウンドストーリーなどを設定します。
- 特定された特徴、課題、目標などを盛り込み、ペルソナシートを作成します。データで裏付けられた記述を心がけます。
ペルソナは、抽象的なユーザー像を具体的な人物像に落とし込むことで、チームメンバー間でユーザーへの共感を共有し、ユーザー中心のアイデア発想や意思決定を促進する強力なツールとなります。
3. ユーザー(カスタマー)ジャーニーマップ作成
ユーザー(カスタマー)ジャーニーマップは、ユーザーが特定の目的を達成するために体験する一連のプロセスを視覚化したものです。時間の経過に沿って、ユーザーの行動、思考、感情、タッチポイント、そして各段階での課題や機会を描写します。
- 手順:
- 特定したペルソナが経験するであろう主要なシナリオ(例:新しいサービスを探し始める、製品を使用する、課題を解決しようとする)を設定します。
- シナリオにおけるユーザーの各段階(フェーズ)を洗い出します(例:認知、検討、利用、サポートなど)。
- 各段階でのユーザーの行動、思考、感情(グラフで表現することも多い)、接触するタッチポイント、そして課題やフラストレーション、潜在的な機会などをリサーチデータに基づいて記述します。
ジャーニーマップは、ユーザー体験の全体像を俯瞰し、どこにユーザーのペインポイントや、逆に機会が存在するかを明確にするのに役立ちます。特に、ユーザーが見落としがちなプロセスや、異なるタッチポイント間での体験の断絶を発見するのに有効です。
真のインサイトを引き出すための深掘りテクニック
データのアフィニティダイアグラム、ペルソナ、ジャーニーマップなどの構造化・可視化を通じて、ユーザーに関する様々なテーマや課題が浮かび上がってきます。ここから一歩進んで、真のインサイトを抽出するためには、さらにデータを深く掘り下げ、背後にある理由や文脈を理解する視点が重要です。
1. 「Why-Howラダー」による深掘り
「Why-Howラダー」は、特定の行動や発言に対して「なぜ?」「どうやって?」と問いかけることを繰り返すことで、表面的な事象の背後にあるより深い動機や目的、あるいは具体的な手段を明らかにする手法です。
- 手順: 特定のユーザーの行動や課題(例:「〇〇という製品を使う際に毎回エラーに直面する」)を起点とします。
- なぜ? その行動/課題が起こる原因や目的は何か?(例:「エラーの原因が分からないから」)
- なぜ? さらにその背後にある理由は?(例:「専門知識がないから」)
- なぜ? 究極的な動機や潜在的なニーズは?(例:「エラーなくスムーズに作業を完了したい」)
- 逆に、解決策や行動の手段に対して「どうやって?」と問いかけることで、具体的なプロセスや潜在的な機会が見えてくることもあります。
このプロセスを繰り返すことで、表面的な課題の解決策だけではなく、ユーザーの根源的な欲求や真の目的を発見しやすくなります。
2. 潜在ニーズとコンテキストの理解
ユーザーが言語化できない潜在ニーズは、観察データや、ユーザーが置かれた具体的な「コンテキスト(文脈)」から読み解く必要があります。ユーザーは特定の状況や環境下で、無意識のうちに行動パターンを変化させたり、特定のツールを使ったりします。
- 実践ポイント:
- 行動の観察: 言葉だけでなく、ユーザーの行動、表情、ジェスチャー、周囲の環境との相互作用を注意深く観察します。
- 「なぜその場で、そのように行動するのか?」: 特定の行動が、その場所や状況とどのように関連しているのかを深く考えます。例えば、「家ではなくカフェで作業するのはなぜか?」「特定の時間帯にのみその行動をとるのはなぜか?」など、コンテキストが行動に与える影響を分析します。
- 隠れたフラストレーションや工夫: ユーザーが既存の方法で不便を感じながらも、工夫して対処している場面は、潜在的なニーズや改善機会の宝庫です。
潜在ニーズやコンテキストを理解することは、ユーザー自身も気づいていないインサイトの発見につながり、全く新しいアプローチのソリューション開発のヒントとなります。
3. 複数のデータソースの統合と照合
インサイトの確度を高めるためには、一つのデータソースに依存せず、複数のデータソースからの情報を統合し、照合することが重要です。例えば、インタビューで語られたことと、観察で確認された行動が一致するか、あるいは二次情報で示される市場の傾向と個別のユーザーの体験がどのように関連するかなどを検討します。
データの矛盾や食い違いは、それ自体が重要なインサイトの手がかりとなることがあります。想定と異なるデータが出現した場合は、その理由を深く掘り下げて分析する必要があります。
チームでのインサイト共有と活用
抽出されたインサイトは、チーム全体で共有され、共通理解として浸透することが重要です。これにより、チームメンバー全員が同じユーザー像と課題認識を持ち、同じ方向性に向かってアイデア発想やプロトタイピングを進めることができます。
- 効果的な共有方法:
- インサイトステートメント: 発見したインサイトを簡潔かつパワフルなステートメント(例:「[ユーザー名]は、[状況]において[課題]を感じている。それは[根本原因/潜在ニーズ]があるからだ。」)としてまとめます。
- ストーリーテリング: インサイトに至った背景にあるユーザーの具体的なエピソードや観察結果をストーリーとして語ることで、チームメンバーの共感を呼び、理解を深めます。
- インサイトボード: 抽出されたインサイトを物理的またはデジタルなボードに集約し、常にチームメンバーが見られる状態にします。
- インサイト共有ワークショップ: チームでリサーチデータを一緒に分析し、インサイトを議論するワークショップを実施します。
インサイトがチーム内で共有され、血肉となることで、続くアイデア発想フェーズにおいて、表面的な解決策ではなく、ユーザーの真の課題に基づいた、より革新的なアイデアが生まれやすくなります。
実践上の課題と克服策
リサーチデータの分析とインサイト抽出の実践においては、いくつかの課題に直面することがあります。
- 課題1: データの膨大さ
- 克服策: 分析の目的を明確にし、最も関連性の高いデータに焦点を当てる。ツールを活用してデータの整理・分類を効率化する。最初から完璧を目指さず、重要なパターンから分析を開始する。
- 課題2: 分析者のバイアス
- 克服策: チームメンバー複数人で分析を行い、多様な視点を取り入れる。意識的に自身の仮説や先行知識から距離を置き、データ自体が語ることに耳を傾ける。ペルソナやジャーニーマップ作成時に、特定のユーザーの経験を過度に一般化しないよう注意する。
- 課題3: 表面的な分析に留まる
- 克服策: 「なぜ?」「どうやって?」といった問いかけを繰り返し、深掘りを徹底する。「Why-Howラダー」などのフレームワークを活用する。観察データから行動の背後にある意図を推測する訓練を行う。
これらの課題に対し、チームでの協力、体系的な手法の活用、そして分析スキルを継続的に磨く姿勢が重要です。
まとめ
新規事業開発におけるデザイン思考において、リサーチデータの分析とインサイト抽出は、ユーザー中心のアプローチを成功させるための極めて重要なプロセスです。収集された膨大な定性データを、アフィニティダイアグラム、ペルソナ、ジャーニーマップなどの手法を用いて構造化・可視化し、さらに「Why-Howラダー」やコンテキスト分析といった深掘りテクニックを駆使することで、表面的なニーズにとどまらない、ユーザーの深層的な動機や潜在的な機会を示唆する真のインサイトを発見することが可能になります。
抽出されたインサイトは、チーム全体で共有され、共通理解として浸透させることで、続くアイデア発想やプロトタイピングフェーズにおいて、ユーザーの真の課題解決につながる革新的なソリューション開発を加速させます。データの膨大さや分析者のバイアスといった実践上の課題に対処するためには、体系的なアプローチとチームでの協働が鍵となります。
本稿が、読者の皆様の新規事業開発やプロダクト開発において、リサーチデータを価値あるインサイトへと転換するための実践的なヒントとなれば幸いです。デザイン思考の実践を通じて、顧客にとって真に意味のある価値創造を目指していただければと思います。