新規事業開発におけるデザイン思考:複雑なステークホルダー環境とエコシステムへの応用
はじめに
新規事業開発は、不確実性の高い領域であり、ユーザーの真のニーズに基づいた価値創造が成功の鍵を握ります。デザイン思考は、このようなユーザー中心のアプローチを体系的に実践するための強力なフレームワークとして広く認識されています。共感、定義、アイデア創造、プロトタイピング、テストという5つのフェーズを通じて、顧客理解を深め、革新的なソリューションを生み出すプロセスは、多くの初期段階のプロダクト開発において有効性を発揮します。
しかしながら、現代の新規事業は、単一の明確なエンドユーザーだけでなく、多岐にわたる利害関係者(ステークホルダー)が関与し、さらに広範なエコシステムの中で機能することを要求されるケースが増加しています。例えば、B2B2Cモデル、プラットフォーム事業、地域社会を巻き込むサービス、社会課題解決を目指すプロジェクトなどは、複雑なステークホルダー構造と相互に関連する要素からなるエコシステムを考慮しなければ、その設計と展開は困難となります。
このような複雑な環境においては、従来のユーザー中心の視点だけでは十分な成果が得られない場合があります。利害の異なる複数のステークホルダーを理解し、サービスやプロダクトが組み込まれるエコシステム全体の影響を考慮に入れたアプローチが不可欠となります。本稿では、複雑なステークホルダー環境とエコシステムが関わる新規事業開発において、デザイン思考をどのように適用し、必要に応じてそのフレームワークを拡張していくべきかについて、実践的な観点から考察します。
複雑な新規事業が抱える特有の課題
複雑な新規事業開発における「複雑性」は、主に以下の要因によって生じます。
- 多層的なステークホルダー: エンドユーザーに加えて、ビジネスパートナー、規制当局、供給者、従業員、地域社会など、多様な利害関係者が事業の成功や失敗に影響を与えます。それぞれのステークホルダーは独自のニーズ、動機、制約、そして力関係を持っています。
- 相互依存的な要素: 事業は独立して存在するのではなく、既存の市場、インフラ、技術、社会・文化的な背景といったエコシステムの一部として機能します。これらの要素は相互に影響を与え合い、予期せぬ結果を生み出す可能性があります。
- 長期的な影響と持続可能性: 短期的なユーザー満足度だけでなく、事業がエコシステム全体に与える長期的な影響(環境、社会、経済など)や持続可能性を考慮する必要があります。
- 変化の速さ: 市場環境や技術、規制などが絶えず変化するため、動的なエコシステムの中で事業を適応させていく必要があります。
このような環境では、線形的な「ユーザー課題発見→解決策提示」というアプローチだけでは、一部のステークホルダーの視点を見落としたり、エコシステム全体のバランスを崩したりするリスクを伴います。
複雑性に対応するためのデザイン思考の拡張
デザイン思考の各フェーズは、複雑な状況下でも有効な基盤を提供しますが、その適用範囲と深度を拡張する必要があります。
1. 共感(Empathize)フェーズの深化:多角的なステークホルダー理解
- 対象の拡大: エンドユーザーだけでなく、事業に関わる全ての主要なステークホルダーを特定し、彼らの視点から現状を理解することを試みます。
- リサーチ手法の多様化: 個別インタビューや観察に加え、ステークホルダー間のインタラクションを観察する、ワークショップ形式で多様な意見を引き出す、既存のデータやレポートを分析するなど、より広範な情報収集を行います。
- ニーズとモチベーションの掘り下げ: 各ステークホルダーの顕在的・潜在的なニーズ、動機、そして彼らが抱えるペインポイントを深く掘り下げます。それぞれのステークホルダーにとっての「価値」が何かを明確にします。
- 相互関係の分析: ステークホルダー間の関係性、影響力、潜在的なコンフリクトポイントをマッピングし、理解します。ステークホルダーマップや、パワー/インタレストグリッドなどのツールが有効です。
2. 定義(Define)フェーズの再構築:多層的な課題定義
- 複数の視点からの課題定義: 単一の「ユーザーの課題」としてではなく、各主要ステークホルダーにとっての課題や機会を定義します。それぞれの課題は相互に関連している場合が多いため、それらの関係性も考慮に入れます。
- システムとしての課題把握: 事業を取り巻くエコシステム全体を俯瞰し、要素間の相互作用から生じる構造的な課題や機会を定義します。ここでは、システム思考におけるループ図やフロー図などが、複雑な因果関係を理解する上で示唆を与える可能性があります。
- 機会領域の特定: 複数のステークホルダーにとって共通のメリットとなる領域や、エコシステム全体の改善につながる機会領域を特定します。
3. アイデア創造(Ideate)フェーズの多様化:包括的なソリューション探索
- ステークホルダーを巻き込んだ共創: 特定された各ステークホルダーの課題や、システム全体としての機会領域に対して、多様な視点からアイデアを創出します。可能であれば、主要なステークホルダーをアイデア創造プロセスに巻き込むことで、より現実的で受容されやすい解につながる可能性があります。
- エコシステム全体への影響を考慮した発想: 特定のユーザー課題を解決するアイデアだけでなく、事業がエコシステム全体にどのような影響を与えるかを予測し、ポジティブな影響を最大化し、ネガティブな影響を最小化するアイデアも検討します。
- サービスデザインの手法の活用: サービス全体を通してのユーザー体験だけでなく、バックステージのオペレーションやシステム連携、組織構造といった要素も含めてアイデアを発想するために、サービスブループリントなどの手法からインスピレーションを得ることが有効です。
4. プロトタイピング(Prototype)フェーズの拡張:関係性と相互作用の検証
- 体験のプロトタイピング: 単なるプロダクトの機能だけでなく、異なるステークホルダー間のインタラクションや、サービス提供プロセス全体(フロントステージとバックステージを含む)の体験をプロトタイプします。ロールプレイングやシナリオシミュレーションが有効です。
- システム要素のモデリング: エコシステム内の主要な要素(パートナーシップ、データ連携、法規制対応など)間の関係性や流れを簡易的にモデリングし、シミュレーションすることで、潜在的な課題や機会を早期に発見します。
- ステークホルダー間の価値交換の可視化: 各ステークホルダー間でどのような価値(情報、モノ、サービス、経済的価値など)が交換されるのかをプロトタイプし、そのフローがスムーズかつ持続可能であるかを確認します。
5. テスト(Test)フェーズの多角的評価:複合的なフィードバック収集
- 複数のステークホルダーからのフィードバック収集: プロトタイプに対する評価を、エンドユーザーだけでなく、関係する主要なステークホルダーからも収集します。彼らの異なる視点からのフィードバックは、ソリューションの網羅性や受容性を高める上で不可欠です。
- エコシステムへの影響評価: プロトタイプを限定的に導入するなどして、サービスやプロダクトが既存のエコシステムに与える影響を観察・評価します。予期せぬ相互作用や副作用がないかを確認します。
- 価値提案の検証: 定義した各ステークホルダーへの価値提案が、実際に機能するかを検証します。彼らがプロトタイプに対してどのような反応を示し、期待する価値を感じるかを確認します。
実践上の課題と対応策
複雑なステークホルダー環境やエコシステムを対象とするデザイン思考の実践には、特有の課題が伴います。
- ステークホルダー間の利害調整: 異なる利害を持つステークホルダー全てのニーズを満たすことは困難な場合があります。共通の目的を見出すためのファシリテーションスキルや、Win-Winの関係性を築くための交渉・調整能力が求められます。
- 情報の複雑性と過多: 多様なステークホルダーやエコシステムから収集される情報は膨大かつ複雑になる傾向があります。情報を整理し、重要なインサイトを抽出するための分析能力と、適切なフレームワークを活用する能力が重要です。
- 組織内の連携と専門知識の統合: ステークホルダーやエコシステムの理解には、法務、財務、サプライチェーン、テクノロジー、広報など、様々な部門や外部パートナーの専門知識が必要となる場合があります。組織内の壁を越えたクロスファンクショナルな連携と、多様な専門知識をデザイン思考プロセスに統合する仕組みが不可欠です。
- 長期的な視点の維持: エコシステム全体への影響や持続可能性は、短期的な視点では見落とされがちです。事業の長期的なビジョンを明確に持ち、デザイン思考プロセス全体を通してその視点を維持することが重要です。
これらの課題に対応するためには、デザイン思考を実践するチーム自体が、多様なバックグラウンドを持つメンバーで構成されること、そしてステークホルダーとのオープンで継続的なコミュニケーションを重視する姿勢が求められます。また、リーンスタートアップの考え方を取り入れ、小さなスケールでプロトタイプを繰り返しテストし、フィードバックを迅速に反映させるアプローチは、複雑な環境下でのリスクを低減し、学習を加速させる上で有効です。
結論
新規事業開発が複雑なステークホルダー環境や広範なエコシステムを対象とする場合、デザイン思考は依然として強力なフレームワークですが、その適用範囲と深さを拡張する必要があります。単一のユーザーに焦点を当てるだけでなく、多様なステークホルダーの視点から共感を深め、エコシステム全体をシステムとして捉えた上で課題を定義し、包括的なアイデアを創造する必要があります。そして、関係性や相互作用を検証するためのプロトタイピング手法を導入し、複数のステークホルダーからのフィードバックに基づいた多角的なテストを実施することが不可欠です。
このような拡張されたデザイン思考アプローチは、複雑な課題に対するより網羅的で持続可能なソリューションを生み出す可能性を高めます。実践にはステークホルダー間の利害調整や多様な情報の統合、組織内の連携といった課題が伴いますが、これらを乗り越えることで、変化の激しい現代における新規事業の成功確率を高めることができるでしょう。デザイン思考を複雑な現実に適用し、継続的に進化させていくことが、これからの新規事業開発を担うプロダクト開発マネージャーに求められています。